優れた音楽性とシーン最強のアンサンブルを武器に目覚ましい成長を遂げ、9/28にDVD/Blu-ray『Nothing's Carved In Stone Live at 野音』とアナログ盤『Nothing's Carved In Stone Live at 野音』をリリースすることを発表したNothing's Carved In Stone。同バンドのVo./G.村松拓の“自らの故郷である千葉県八千代市に流れる新川を綺麗にしたい”という想いがきっかけとなってスタートした新連載『たっきゅんの…………(タイトル未定)』。第3回目となる今回は新川をより深く理解するために、八千代市立郷土博物館にお邪魔して八千代市と新川の歴史を勉強させていただいた。
今日はありがとうございます。新川の開発の歴史を勉強させていただければ幸いです。
よろしくお願いします。新川がどうやって開発されてきたのか、その歴史や背景を知りたくて。
新川はもともと花見川とは繋がっていなくて、その間には台地があって、水系がまったく違っていたんです。八千代市の川はだいたい北東方面に流れていて、千葉市側は東京湾に向かって傾斜していて、川も東京湾に流れていたんですが、その間を無理やり開削したのが今の姿なんです。
そういう大工事をやったので、現在八千代市と千葉市の間にかかっている弁天橋の付近は、まさにV字谷のような地形になっているんです。あれは開削した結果なんですよ。
そうです。台地を切り開いて川を無理やり繋いだと。ただ、江戸時代から何度か工事をやって、完成したのは結局昭和40年代なんです。
はい。江戸時代は主に3回トライしているんですが、3回とも失敗に終わっているんです。なかなか大変だったようですね。
そうですね。ただ、開削する前の歴史についても重要だと思うんですが、今の新川は川幅も広くて大きな川ですけど、昔は非常に細くて、丸木橋で渡れるくらいの流れだったんです。
細い流れとはいえ、八千代市のいたるところの湧き水が集まって印旛沼へ向かって流れていく川だったんです。
かなり減ってしまいましたけど、例えば今も米本に乳清水(ちっこしみず)という湧き水などがありますね。村上地域…この郷土博物館の近くにもたくさん湧き水があったんですが、今は枯れてしまっています。ただ、なんといっても水があることは人間が生きていくための必須条件ですので、この新川及び支流の勝田川、高津川、桑納川などの川沿いを中心に、旧石器時代から人が住んでいた痕跡が残っているんです。八千代の歴史は3万年と言われておりまして。
旧石器時代の遺跡もたくさんありますし、縄文土器や住居、貝塚も出ているんです。
そう単純な話ではなくて、八千代市の貝塚はシジミなんですよ。ヤマトシジミ。
ヤマトシジミというのは、海水と淡水が混じった汽水域で大きく育つシジミらしいんですね。八千代市の貝塚を調べると、立派なシジミの殻が出てきます。
そうですね。“縄文海進”といいまして、縄文時代は今よりも海面が高かったらしく、海の水が今よりも内陸に来ていたようですね。それが縄文時代の前半なんですけど、当時は新川付近の低地にも海の水が入ってきていたんです。
鋭いですね。でも谷の形成は地球規模の営みなので、簡単には言えませんね。ところで、緑が丘の駅前からは、真牡蠣やウミニナの貝殻が出ています。縄文海進ピーク時の遺跡ですね。
弥生時代の遺跡もたくさんあって、当時から新川の恵みを受けて人々は生活していたんでしょうね。かつては古墳もたくさんありました。
そうでしょうね。弥生時代なども経て、それなりの力を持った人も八千代地域に住んでいたのではなかろうかと。そういう時代をいろいろと経て、江戸時代に入ってようやく新川と花見川を繋げようということになったんです。
その理由の1つとして、雨が降ったりして大水になると、印旛沼の水が逆流して洪水を起こしていたようですね。せっかくの水田が水没してしまう。八千代市内の米本には“逆水(さかさみず)”という地名があるんですが、まさに水が逆流したから付けられた地名じゃないかと言われています。
まず江戸時代の享保の頃(1716〜1735年)、享保の改革…吉宗の時代ですよね。平戸の染谷源右衛門さんが願い出て、新川と花見川をつなぐことによって印旛沼の水を江戸湾に流し、洪水を無くして、新田開発を進めよう、という話になったんです。八千代市には“源右衛門祭”というお祭りがあるんですが、それは染谷源右衛門さんにちなんだお祭りなんです。
ただ、享保の頃の開削工事は、残念ながらお金が無くなって中止してしまったんです。源右衛門さんは土地などを売って工面したらしいんですけど、今のお金で240億円以上必要だったらしいんです。
2回目が天明期(1781〜1789年)で、田沼意次の時代なんです。老中・田沼意次は印旛沼の干拓を進めて、農地を広くして、お米の生産性を上げようとしたんです。その考えに加えて、島田の信田治郎兵衛という方が出てきまして、あと草深新田の平左衛門という方も関わっているんですが、そういった名主さんの提案で開削工事をやりましょうとなったようです。
それで果敢に挑んだんですけど、今度は利根川の大洪水があったんです。浅間山が噴火して、大量の火山灰が降り、利根川の水かさが上昇したんですね。田沼意次も失脚してしまいますし、計画は頓挫してしまったんです。
3回目は天保期(1830〜1843年)なんですが、老中・水野忠邦が中心となって、大名に工事を割り当てて「今度こそ開削工事を成功させよう」ということでトライしたんですけど、また悪いことに、開削しようとした新川と花見川の間の台地の土は“ケトウ土”といいまして、水を含むと崩れやすいんですね。だからせっかく掘り進んでいたんですけど、大雨で崩れてしまったんです。そうこうするうちに水野忠邦が工事中に失脚しまして、途中で終わりになってしまった。3回やって全部頓挫したんです。
江戸時代のうちに3回失敗しているんですね。ということは、もともとは源右衛門さんが言い出したことかもしれないですけど、それが印旛沼の水害を減らす唯一の方法だったということなんですね?
はい。アイディアは良かったんでしょうね。結局、開削工事は昭和にまで繋がっていくわけですから。
常松さんが持っておられる資料に「怪獣が開削工事を邪魔した」と書かれていますけど、これは何なんですか?
これ、実は当時の役人さんが書いたらしい古文書にそういう記述があるんです。
工事現場の見回り中に死者が出たらしいんですが、その理由として怪獣が出てきたという記述があるんです。
いやいや、その辺はわからないですけど(笑)、大きさが5mくらいあって、恐ろしいらしいです。
結局、天保の工事のときは5人の大名に割り当てて人夫を連れてきた。有名なところでは庄内藩という山形の方からわざわざ来た人夫も居るんですよ。で、こっちで亡くなっちゃったということで、庄内藩の人夫のお墓が残っていたりするんです。ひっそりと歴史を伝えているということですね。
工事現場は一時的に直轄になりました。八千代市域は、通常は佐倉藩と旗本の領地に細かく分かれていて、幕府の直轄地も少しあったようですね。
そうやって江戸時代にはいろいろありましたけど、昭和40年代になってようやく開削工事が完成しまして、新川と花見川が繋がって現在の姿に至るんです。
そうですね。川幅も広くして、深く掘ったんです。その一方で、埋め立てもしているんですよ。八千代市の低地は少し高くなっています。
はい。なかなか昔の地形は残っていないですね。新川の流れ自体はもともとあったものですけど、非常に紆余曲折や変遷を経て今の姿になっているんです。
土地改良という意味合いがあったと思うんですけどね。埋めて高くして水田として使っているところもありますし、図書館を建てたり駐車場になったりしているところもあります。かなり区画整理をやっていますので、低地部分も昔とはかなり変わっていると思います。とはいえ、新川は八千代市の背骨のように流れていまして、地域のシンボルと言ってもいいと思います。
まさにそうですね。だから郷土博物館も“新川と人々の暮らし”というところをメインテーマとして、展示をしているんです。
八千代市立郷土博物館の常松さん、ご協力ありがとうございました!!
郷土博物館にお邪魔する前に、ゴミ拾いをするたっきゅん。
当連載へのメッセージや感想はyamanaka@hirax.co.jpまで!!
Nothing’s Carved In Stone Vo./G.村松拓 連載:たっきゅんの…………(タイトル未定)トップページへ戻る