6年間の活動休止期間を経て、2015年11月17日に解散ライブを行う踊り場ソウル。クラブとストリートカルチャーを昇華し、駆け抜けるように2000年代の音楽シーンを彩った稀有なバンドは、“解散”という終わりに向けて大きく進み出した。6年の間、メンバーはそれぞれ別の道を歩み、そしてこれからもそれぞれの道を進んでいく。今回は、そんな踊り場ソウルの“解散”(終わり)と“これから”(始まり)を切り取った全メンバー個別インタビューを敢行。すべてはここから始まった…6人と踊り場ソウルの原点に迫る。
踊り場ソウルの活動時から同じ事務所に所属しているSCANDALのマニピュレーターを務めつつ、休止後はフリーで作家やレコーディングの仕事にも従事。今現在は原宿カフェ/ストロボミュージックの店長及びマニュピュレーターとして音楽に携わっている。
●現在は裏方の仕事をされているわけですが、踊り場ソウルをやっていたときと感覚は違うんですか?
ヨシダ:いや、僕は今もまだ表現者でいるつもりです。ただ、名前が出るか出ないかの違いなだけで。僕は踊り場ソウル以前にもいろいろとバンドをやっていたんですけど、フロントマンの経験もあるんです。だからどっちの気持ちもわかるというか。バンドを引っ張るリーダーの気持ちも、メンバーの気持ちも。だからその経験を活かして、今手伝っている人たちにフィードバックできているんじゃないかなって思います。
●11/17は解散ライブがありますけど、そもそも活動自体6年ぶりですよね。どういう心境ですか?
ヨシダ:僕の中ではこの6年間、ずっとどこかで“やりたいな”と思っていたんです。ケジメは付けたいなと。ファンの人たちにもSNSとかを通じて「いつかわからないけど、いつかやるから」と言っていて。ようやくそのときが来たかなっていう。ようやく約束を果たせるときがきた。
●ヨシダさんにとって、踊り場ソウルはどういうものですか?
ヨシダ:僕はもともと前にやっていたバンドで対バンしていた頃から知っているんですけど、その頃も含めて、踊り場ソウルは無条件で楽しい場所っていうか。いろいろ悩んだこともありましたけど、ライブが始まっちゃえば楽しい場所。こんなバンド、他にないですよね。不思議なバンドだと思います。
大学3年生のときに踊り場ソウルのメンバー募集に応募して加入。5年間メンバーとして活動し、休止後は音楽から離れ、ずっとバイトをしていた飲食店に就職して、現在は店長。澤野のシンガポール転勤が、踊り場ソウル復活の1つのきっかけとなった。
●この6年間、音楽から完全に離れていたんですよね?
澤野:そうですね。当時は夢中になる対象がバンドだったから一生懸命やっていて、たまたま今はそうじゃないっていうか。でも今、解散ライブのためにリハに入ったりしているんですけど、やっぱり楽しいんですよ。なんとなく、当時とは感覚が違うんです。
●というと?
澤野:僕は我が強いタイプだったので、当時は“こうじゃなきゃいけない”っていうのが強かったんです。自分のために音楽をやっていた、みたいな。でも今考えると、しゃしゃり出てたなって思います(笑)。
●踊り場ソウルの5年間は、自分にとってどういう時間でした?
澤野:踊り場ソウルがあったからこそ今があると思います。いちばん大事な経験として、自分の人生で何かを決めるときに影響しているというか。飲食もバンドと同じで、0から1を作ることだと思っていて。だからそこに対する情熱が大切だし、自分が作ったものを楽しんでもらうことで、音楽としてもビジネスとしても成り立つというか。でも踊り場ソウルをやっていたときは、僕はそこに気づけていなかったんです。今から思うと、そう感じますね。
●11/17の解散ライブに対してはどういう心境ですか?
澤野:楽しみですね。最後に感謝の気持ちを伝えたいなと思います。今までは、来てもらってて当たり前っていうか、“俺のライブを観せてやるよ”っていうどこか上から目線の姿勢だったと思うんです。でも11/17は「来てくれてありがとう」って素直に言いたいです。
活動休止後は様々なアーティストのレコーディングやライブに参加し、平行してTV番組やCM楽曲の制作をスタート。現在はプロのミュージシャン/ドラマーとして活動しつつ、2014年からはどぶろっかーずのドラマーとしても活動している。
●中村さんが踊り場ソウルで活動したのは実質1年半くらいですけど、どうでした?
中村:めちゃくちゃ濃い時間でした。
●めちゃくちゃ濃かった?
中村:僕は大学が福岡で、卒業後に上京していきなり踊り場ソウルに加入したんです。
●あ、そうなんですか。
中村:そのときの踊り場ソウルは、既にガツガツ活動しているバンドだし、事務所の人もいるし、いろんな経験を短期間にさせてもらったというか。
●なるほど。
中村:それに、加入してすぐレコーディングだったんですけど、そのときにディレクションを任せてもらったし。
●今から振り返ってみると、踊り場ソウルはどういうバンドでしたか?
中村:今聴いてもストリート感がありますよね。ポップな感じとディープな感じのバランスがよかったバンドだと思います。
●確かに、ポップさと同時に、ディープさというか都会の洗練された匂いみたいなものを常にまとっている印象で。
中村:その良さは感覚的にはわかっていたのかもしれないけど、休止前は大きく方向を変えようとしていたんです。今、考えると、あの頃に持っていたインディー感をそのまま持っていればよかったのかなって思いますね。
大学生のときは演劇とジャズをやっていたが、卒業後に組んだバンドで澤野と出会う。踊り場ソウルにはライブ後のアンケートに「鍵盤をひかせてほしい」と書いたことがきっかけで加入し、バンマスとして活動。活動休止後は音楽を離れ、革細工の工房で職人をしている。
●踊り場ソウルとして活動した6年間はどういうものでしたか?
橋本:今までの人生の中で踊り場ソウルがいちばんウェイトを占めているっていうか。濃かったし、必死になったし。それがよかったなと思います。
●その必死になってやっていたバンドが6年前に活動休止したことは、どう受け止めているんですか?
橋本:「このライブで今後のバンドを決めよう」というライブがあったんです…それは最後のライブだったんですけど、そのライブが自分たちの中で消化しきれなかったんですよね。で、「少し考えよう」となって、休止になって。
●はい。
橋本:やっぱり中途半端じゃないですか。だから「いつか、復活になるか1回きりかわからないけど、あと1回ライブをやろう」という話は6年前に土屋としていたんです。それが今回、やっと形になるというか。
●そうだったんですね。活動休止後、音楽を続けようとは思わなかったんですか?
橋本:活動休止して、僕は結婚したんです。だからバンドをメインにやるっていうよりは、仕事をしていて。音楽は、今まで出会ったやつらと一緒にインストバンドをやっています。
●あと1回、11/17に踊り場ソウルとしてのライブが残っていますが、橋本さんにとって踊り場ソウルはどういうバンドでしたか?
橋本:憧れっていうか。ライブって夢の世界を見せているようなものじゃないですか。そういうものをしっかりと作っていけるバンドですね。
2008年福岡から上京し、中村皓の紹介で踊り場ソウルに加入。活動休止後は、自身のバンドIRISで活動しつつ、木村カエラや植村花菜/miwaなどのライブ、suzumokuや安倍なつみのレコーディングなど様々なフィールドでプロベーシストとして活動している。
●活動休止以降、様々なジャンルの人のサポートをされていますよね?
なかむら:そうですね。IRISという自分のバンドもありつつ、基本的にはライブサポートがいちばん多いです。
●いろんな現場を経験した今から振り返ってみて、踊り場ソウルはどういうバンドだったと思います?
なかむら:特殊なバンドですね。あまり他にない。久々に集まってリハに入って思うのは、やっぱり変な人たちだし、おもしろい人だったんだなと思います。変わり者の集まりだし(笑)。
●解散ライブが決まって、どういう心境ですか?
なかむら:活動休止したときは不完全燃焼みたいな感覚だったんですけど、6年も経ってそういう感じはなくなって。11/17は、メンバーにとっても来てくれる人にとっても“心に残る夢物語”みたいな感覚が記憶として残るようなライブになればいいかなって思います。
●おっしゃったように、踊り場ソウルの音楽って“夢物語”みたいな感覚が常にありますよね。
なかむら:そうなんですよ。いい意味で“青い”というか、大学生から社会人になるときのいちばんセンシティブなことを歌っていると思うんです。繊細で、女の子みたいな、メランコリックな。そこがいいですよね。だから踊り場ソウルは“青春”なのかもしれないですね。
●ああ〜、青春。
なかむら:懐かしいなって思うし、いい歌詞だなと思うし。ずっと残っていてほしい世界っていうか。11/17は、最後にみんなでその感覚を思い出して、お客さんにも観てもらって。すごくいいバンドだと思うから、切ないといえば切ないですけど、この途中な感じが踊り場ソウルっぽいのかなって思います(笑)。
2003年に踊り場ソウルを結成し、現在残っている唯一のオリジナルメンバー。活動休止後は所属していたキティエンターテインメントのマネジメントスタッフとしてSCANDALなどのライブ制作に従事し、国内外のツアー制作/ツアーマネージャーを担当している。
●活動休止の決定的な原因は何だったんですか?
土屋:大学卒業後、僕は働いていたんですけど、そのときに組んだのが踊り場ソウルなんです。
●なるほど。既に働いていたんですね。
土屋:東京のライブハウス、クラブシーンでライブをしていく中で、後に所属する事になる事務所キティエンターテインメントの社長…今は会長ですけど…と出会って一緒にやっていく事になって。いきなり音楽だけの生活になりました。
●ほう。
土屋:そのときに社長と約束したのは「なんでもいいからいちばんを獲ろう。そのために3年間一緒にがんばろう」と。活動休止したのはその3年後だったんです。
●あ、そういうことだったんですね。
土屋:休止しようと決めた時に「あと1年頑張りましょうよ」と言ってくれたスタッフも居たんですけど、僕は「それまでの経験を活かして裏方としてもう1度勝負がしたい」と。そのときに所属していたのがSCANDALだったんです。
●それが今の仕事に繋がっていると。
土屋:あと、今は一緒に働いていますが、踊り場ソウルを支えてくれた事務所のみんなとも一緒に仕事をしたいなと思っていました。
●ということは、いちばんを獲れなかったので休止することを決めたと。
土屋:僕はストリートカルチャーで育ってきた人間だったんですけど、歌うリアリティを持てなくなったというか、“自分はもうストリートに居なくなったんだ”ということを実感したということもあるんです。
●リアリティを持てなくなった。
土屋:ギターのサワッチ(澤野)から「バンドの今後とか、分岐点になるようなことは、みんなが常に考えていることじゃないから話し合わない方がいいよ。つっちー(土屋)は折衷案を取ろうとするけど、それはたぶんバンドにとってマイナスになる。つっちーが決めた方がいい。」と言われた事は今でも覚えています。
●そうだったんですね。こうやってみなさんの話を訊いて思うんですが、踊り場ソウルって不思議なバンドですね。個性的な人たちというか。
土屋:(笑)。最初は遊びでやっているものの、当時のライブハウスシーンでライブをやっていく中で“もっと真剣にやってみたい”と思うようになって。
●そこで生じた熱が、踊り場ソウルの活動に繋がっていったんですね。
土屋:当時のクラブミュージックを昇華した音楽と出会って、それがイケてて、海外でも通用してて、それがすごく眩しくて。だから自分も“いちばんを獲ってみたい”と思ったんでしょうね。
●では最後に、踊り場ソウルは11/17に終わってしまいますけど、土屋さんにとって踊り場ソウルはどういうものでしたか?
土屋:うーん…。この先、何歳まで生きるかわかんないですけど、踊り場ソウルが原点で青春ですね。
interview:Takeshi.Yamanaka
LIVE:踊り場ソウル / wacci / YAKUMI (O.A)
DJ:ザッキー(ex.POMERANIANS) / 原島”ど真ん中”宙芳 / 桑原大(HAYABUSA MAG)