1992年の結成から一貫して“1968年から1972年のファンクサウンドを現代に蘇らせる”ということにこだわり、独自の存在感を放ち続けてきたオーサカ=モノレール。海外での音源リリースやヨーロッパツアーの敢行も通じて、今や日本が世界に誇るファンク・オーケストラとなった。“1970年のジェームス・ブラウンに影響を受けたアフリカのバンドが1977年にやっているサウンド”というコンセプトで作られたタイトル曲の話を軸に、5年ぶりのオリジナルニューアルバム『STATE OF THE WORLD』に迫る。
「僕らはファンクミュージックという枠のエッジの部分で、"ここを飛び出たらどうなるかな?"っていうギリギリのところをウヨウヨしているつもりなんですよ」
●オリジナルアルバムでいうと、2006年に発表した前作『REALITY FOR THE PROPLE』から5年ぶりとなるわけですが、制作はいつ頃から?
中田:M-1「STATE OF THE WORLD」は、さかのぼれば2001年頃には考えついていたアイデアで。曲として形にしたことも何度かあるんですけど、今まではどれも納得がいかなくてボツにしてきたんですよ。最初に作った時には良い曲ができたと思ったんだけど、まだ何か足りない感じがあって。ずっとこねくりまわし続けて、やっと今回リリースできる形になりました。
●元になるアイデア自体は10年前からあった。
中田:僕たちは1968年から1972年のファンクミュージックにこだわって活動しているんですけど、ずっと同じところでやっているとアイデアも必然的に枯渇してくるし、閉塞感も出てくるんです。その時代を掘り下げることも大事ですけど、何か新しいアイデアを注入することが必要になってくる。しかし、たとえばそこで安易にファンクと天神囃子の音楽をくっつけたりするのは、僕の性格とは合わなくて。もうちょっと普遍的というか、意味のありそうなことをやりたいんですよ。
●"意味のありそうなこと"というのは?
中田:たとえばジミ・ヘンドリックスは1970年に亡くなったわけですけど、"もし彼が死なずにそのまま活動を続けていたら、1972年頃にはどんな音楽をやっていただろうか?"と勝手に想像して曲を作ってみたりすることにはまだ意味があると僕は思うんです。突拍子もないところからアイデアを持ってくるんじゃなくて、ある特定の範囲内で今まで誰もやっていなかったようなことをやりたい。
●過去の流れや枠の存在を意識した上で、新しいことをやるというか。
中田:そういうふうにアイデアを発展させないとダメだと思うんですよ。今回のタイトル曲は1970年のジェームス・ブラウンに影響を受けたアフリカのバンドがいたとして、そのバンドが1977年にやっているサウンドというイメージなんです。
●1977年ということにも意味がある?
中田: 1977年と1978年は全然違いますよね。映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が1977年公開で、音楽業界がディスコ一色になったのが1978年なんですよ。その年に売れたものには、カスみたいなレコードしかない。だから1978年頃のアフリカとなると、あんまりカッコ良くなさそうだなと。でも1971年だったらカッコ良すぎるから、1977年のアフリカくらいがちょうどニッチでいいんじゃないかなって(笑)。
●1971年だとカッコ良すぎるんですね。
中田:例えば1970年代初頭のアフリカには、フェラ・クティみたいにカッコ良い音楽がたくさんあるから。そもそも、その時代のサウンドは多くの人たちが何十年間も追い求めているものですよね。1968年から1972年という黄金期を愛していて、そこから何かを再現したり抽出できたら本望だと思っている人は僕も含めてたくさんいた。でもそれをただコピーしたり勉強するだけだったら従来にもあったから音楽的な発展性がないので、そこにちょっとだけでも自分のアイデアを足さないといけない。
●それがなぜアフリカだったんですか?
中田:アフリカの音楽に関する情報って少ないから、たとえば太鼓を叩きながらウホウホ言ってたりするようなイメージしか持っていない人もいると思うんです。でも実際は1970年代にもなれば、アメリカの商業音楽の影響をモロに受けているわけですよ。そういう音楽の影響などをすごく受けて、自分たちの音楽をやっている人たちがアフリカにはたくさんいるっていうのが1つの理由としてあった。
●アフリカの音楽的な背景が、理由の1つになっている。
中田:もっと前の1930年代にはアメリカからジャズが伝わっていたり、キューバからパリに伝わったラテンミュージックが当時はフランスの植民地だったアフリカにも伝わっていたりして。アフリカの音楽は20世紀にルンバ、ジャズ、ソウルミュージックの3つに影響を受けていて、ある種、世界のブラックミュージックのるつぼと言えるんですよ。
●その中で独自の進化を遂げたアフリカのファンクミュージックを、今回は表現しようとした?
中田:僕らが日本でやっていることはガラパゴス諸島に恐竜みたいなイグアナがいたり、始祖鳥に近い鳥がいるような感じなのかなと思っていて。M-3「ENDEMISM」というのは生物学の用語で"固有種"という意味なんですけど、"その地域にしか生息していない生き物"という意味なんです。僕らもそういう感じで、"死滅しかかったファンク軍団がここにいた"っていうか。良い意味でも悪い意味でも"生きた化石"みたいなものですね(笑)。
●(笑)。
中田:ファンクミュージックって、基本的には絶滅した音楽だと思うんですよ。一度絶滅したような音楽を掘り起こすのが、特に日本人は好きで。それは化石を掘り起こすような行為なんですけど、単に死体を見つけて喜んでいるようではミュージシャンとして面白くないから。死んでいる化石を掘り起こすんじゃなくて、生きた化石を掘り起こさないといけないんですよね。もしくは死んでいても、それを生き返らせるようなことをしなければいけない。
●昔の面白い音楽を見つけてくるだけじゃなくて、それを自分で独自に進化させたものをやりたい?
中田:進化させたいんですけど、進化させようとして進化させたらニセモノになってしまう。そこがポイントなんですよね。そういう意味のわからないジレンマに毎日、僕らは苦しんでいるんです(笑)。
●だから構想から形になるまでにも時間がかかる。
中田:そうですね。あと、バンドは生き物なので良い時も悪い時もあるから、時間はかかるんですよ。基本的には僕がやりたいことを伝えて各メンバーに演奏してもらう形なんですけど、ただ押しつけになっていたらみんなも面白くないと思うんです。だからできるかぎり適性を見て、各メンバーの良いところを活かせる曲にしようとは考えていて。
●メンバーが9人もいると、イメージを共有するのが大変なんじゃないですか?
中田:バンドのコンセプトは、基本的に1960年代のアメリカのブラックミュージックということなんですよ。その中にもソウルとかファンク、ジャズ、リズム&ブルースやゴスペルとか色んなジャンルに分かれていて幅が相当あるんですけど、優秀なミュージシャンであれば"1960年代のUSブラックミュージック"っていう枠に入っているものなら全部やれるはずなんです。僕がメンバーに求めることはその枠の中に入っていて欲しいということだけで、それ以外は自由にやってもらって構わない。
●その共通項は全員が持っている?
中田:持っていないとダメなんです。全員が100%わかっているわけじゃないとは思うんですけど、演奏中にもし違うことをやっている人がいたら僕にはすぐ聴こえるんですよ。それが僕らの黄金律だと思っているから。
●今のメンバーはそれがやれているということ?
中田:まだ先は長いですけどね。僕らがやっていることは日本に住んだこともない外国人がいきなり尺八をマスターしようとしているのと同じことですよね。それってほとんど不可能な無理難題なんです。でも不可能っていう大前提がある上で、一生懸命がんばっている。
●だから、ガラパゴス的な独自の進化をするんでしょうね。
中田:そうですね。先程言った様に、たとえばアメリカの黒人ミュージシャンが1960年代にやっていたようなことを自分たちもやろうとした時に、安易に日本人的な解釈を入れたりしたらそれはただのニセモノになる。逆にどうしたら同じようにやれるかというところについて自分の脳みそで考えられる限り努力をしたのなら、最終的にちょっと違うものができあがってきても仕方ないことだし、それを聴いたアメリカ人やヨーロッパ人が良いというかもしれない。
●そういうものをやるという方向性は、昔からずっと変わらない?
中田:そこがポイントですね。誰でも最初は当時の音がカッコ良いから自分たちもやりたいと思って、ファンクバンドを始めると思うんです。何年か経つと"これにどんな意味があるのか?"っていうことを考え始める。そしたら、幅がどこからどこまでかということにもなってくる。
●自分たちがやりたい音の"幅"?
中田:僕自身はバンドを始める時に"1968年から1972年"という幅を決めたんですけど、その前にも後にも良いものはもちろんあるんです。変にこだわっているわけではないし、その枠の中でウヨウヨさせる感じはありだと思うんですよ。アルバムごとにやっている部分が違ったりとかしてもいい。でも一番の根っこにあるのは、その時代のものっていうだけで。
●そこの根っこがしっかりしていればいい。
中田:ブラックミュージックの中には色んなジャンルがあるけど、それはみんなスタイルの違いだけだから。やっているのはみんな同じ当時のアフリカン・アメリカンなので、根底にあるスピリットやライフスタイルにある程度共通のものがあると思うんですよ。自分たちの音楽もそこが見えるようなものにならないとダメなんでしょうね。そういう1960年代の現実を追求するというのがまず1つあって、それとは別にもう1つの軸があるんです。それが"東京"なんですけど。
●"東京"?
中田:僕が1980年代後半にファンクミュージックと出会えたのは、当時のロンドンを中心に流行っていた"レアグルーヴ"というブームがあったからです。1970年代前半のソウルミュージックを聴きながらクラブで踊るっていうブームの影響を受けた。僕らがいた東京のクラブシーンはロンドンのブームからモロに影響を受けていて、自分たちはその流れを受け継いでいる。これが"ロンドン軸"と"東京軸"ということで。僕は今、1960年代のアメリカに直接向き合おうとしているんですけど、それ以前にロンドンでのブームがあったからファンクミュージックをやっているという部分も実はものすごく大きいんです。
●ロンドンと東京という2つの経由地を経て、アメリカのファンクミュージックと出会っている。
中田:本物は1960年代のアメリカにあって、そこを直接見ることもできるんですけど、ロンドンや東京を通して見ることもできるわけで。見方が1つだけだと面白くないから、たまには他の見方をしてもいいかなっていう気持ちがある。僕らはファンクミュージックという枠のエッジの部分で、"ここを飛び出たらどうなるかな?"っていうギリギリのところを今はウヨウヨしているつもりなんです。
●1968年から1972年という枠の中でも、ギリギリのところをいっていると。
中田:今作の中にはオーソドックスな形でやっている曲もあるし、両方をできるようになりたいですね。1960年代のブラックミュージックを中心にプレイしているDJたちの間でも、基本的にはどれもその枠の中にあるはずなのに"今はこれがイケていて、これはダサい"とかの流行り廃りがあるわけですよね。それと同じような感覚で、自分の中で今"イケている"と思うことをやるだけです。
●自分の中で流行っていることをやった。
中田:流行を追いかけているつもりはないけど、無関係でもいられない。僕は流行りとは反対のことをやりたがるから、自分の中で"次はこういうものが来るんじゃないか?"っていうものをやる。それとそっくり同じものは来ないだろうけど、かすってはいると思うんですよ。そして、それとて"流行"でしかない。そうして結局は、お釈迦様の手の上で踊っているだけのような気もするんですけどね(笑)。
Interview:IMAI