音楽メディア・フリーマガジン

~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.41

halos(G./Vo.) / Rolling Thunder Records 代表 草階亮一

halos_5th_aphoto_#3http://halos.cc/

東北を代表するバンド、halos(ハロス)のリーダー及びレーベルRolling ThunderRecords 代表。11/5にニューアルバム「PLAY」をリリース。(写真左端)

私たちは一時のようには無力さを感じてはいない。
また明日もここから何かが始まります。

 

 

 

私たちhalosは前作アルバムを2011年2月にリリースしました。ツアーなどのスケジュールが続々と決まる最中その日が来ました。

当時私たちは宮城、岩手、秋田の三県に住んでいました。互いに連絡が取れず気をもむ中、辛うじて送られてきたメールによって本人らの無事は確認できましたが、まだ0歳の赤ちゃんを抱えるメンバーの奥さんが石巻の職場にて被災し全く連絡が取れないとの事でした。

赤ちゃんと2人、避難所でミルクやオムツの支援を受けながら5日間を過ごしやっとの再会を果たしたと、その後連絡を受けメンバー皆で抱き合って喜びました。身内や知人の訃報を知らされる中、本当に嬉しくてしかたありませんでした。

リリース直後でしたが当然スケジュールは全てキャンセル、生活の場を移し新たな仕事に就くメンバーもいる中バンドも大きく揺れ動きましたが、各々歩みを止めることはなく今日に至っています。

新たな生活、それぞれの生活。Pf.担当の宮崎は花農家に、Dr.担当の諸越や私は本格的に音楽を仕事に。

私たちは一時のようには無力さを感じてはいなくて、花や音楽が生活に彩りを与えるものだということをまた新たに強く認識し、誇りを持ってやれている。

今も東北に居を構え、吸い込んだ空気を吐き出すように物作りをしています。震災前も同じようにしてきたつもりでしたが、周りでも文化的なイベントが増え、身近なところで新たに思いを募らせている人が増えてきました。そういった人たちの活動の一助になれる機会も増えました。

すでに東京から何かを輸入して再構築する形は影を潜め、経験を積んだ想いある人々の手によって新たな形を作り上げ始めています。

また明日もここから何かが始まります。

 

play_jacket

 

音楽も花も
生命を維持するのに必要なものではないけれど
生きるためには不可欠なものと信じています
それらが誰かの元へ届いてその人の暮らしに彩りを添えられたらと願っています (Pf. 宮崎悠)

出荷前の花々(作:Pf.宮崎悠)

出荷前の花々(作:Pf.宮崎悠)

 

 

 

 

増設中の風力発電塔

増設中の風力発電塔

 

~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.40

∞Z

jackethttp://zerozeroz.jp/

時間が経てば経つほど、関心を持ち続けることは難しいかもしれない。
それでも、3.11で辛いことがあったたくさんの東北人が、前を向いて生きていることを忘れないでほしい。

震災から3年半の月日が経ちました。
音楽ではお腹は満たせないけど、心は満たせる。
辛いことがあっても、前を向いて頑張っている人々の背中を音楽で押していけたらいいなと思います。

 

震災当時、福島市内にある事務所で打ち合わせをしていました。これまで経験したことのない大きな揺れとともに、壁に大きな亀裂が入り、「中にいたらやばい」と直感的に思い、外に避難しました。

福島市街地がパニックになっていたことを今でも覚えています。すぐに安全な場所でスタッフとニュースをTVで見ていると、よく知っている宮城と福島の海岸沿いに津波が押し寄せ、街が人が車が飲み込まれる、信じられない映像が流れていました。

その後すぐ、放射能汚染で避難指示が出ました。私が住む福島市は自主避難区域でしたが、放射能の数値は異常でした。「マスクをしていれば大丈夫」と報じられていましたが、信じられるわけがなかった。目に見えないものだし、あまりにも想像を絶する出来事がおきてとにかく恐かったです。

こんな状態で音楽ができるのか、やっていいものか、悩みました。音楽の道を決意したのに、音楽で被害にあった場所を元に戻すことはできないし、放射能をなくすこともできない、空腹を満たすこともできない。音楽で物理的に満たせるものは、何一つないんだと痛感しました。

生き残った自分が今やるべきことは何か。せめて、近くにいる人たちだけでも、元気づけられないか、そう思い立ち、ゼロゼロゼットのメンバーと一緒にアコースティックギターとカホンで弾語りの動画を作りYoutubeで配信しました。震災後、放射能や停電の影響でイベントスペースやお店もしばらく稼働できず、野外はもってのほか、人が集まれる場所がほとんどありませんでしたが、大変なときだからこそ助け合ったり、励ましあったりできるように、福島市のアイヴィー楽器がお店を開放していたので、みんなでそこに集まろう! と呼びかけました。音楽をやっている人もやっていない人も、通りすがりにお店にきて、コミュニケーションをとることができました。

来てくれた人のためにメンバーと弾語りをしたり、お話したりしました。そこで震災のいろいろなお話を聞きました。中には津波で家族や友人を失った人、故郷に帰れなくなってしまった人もたくさんいました。みんな辛いはずなのに、みんな会って話したり、歌を歌えばみんな笑顔になりました。その笑顔を見て、自分自身もとても励まされました。とても小さな活動だったかもしれませんが、音楽は物理的に何かを満たすことはできないけど、人と人を繋いで、心に灯りを灯すことができるんだと確信しました。

今も当時の動画がたくさんアップされたままになっています。全部福島に住んでいるミュージシャンが大変なときに集まって演奏したり、語ってくれたりしたものです。おちゃらけているものもありますが、震災後の辛い時期に、動画を見た人が少しでも笑えたり、元気になれたなら、それに越したことはことはなかったはずです。
そして、震災から3年半経った今、当時の動画が、3.11のことを思い出したり、考えるきっかけを与えるものになればと思います。

震災後、放射能の情報が錯綜していて、何が正しいのか、何を信じればいいのか、非常に難しいです。福島のテレビでは天気予報で放射能の数値が当たり前のようにニュースで流れます。ふるさとに帰れない人々もたくさん、離ればなれで暮らす親子もたくさんいます。様々な事情で子どもを福島で育てることに迷い、不安、責任を感じて心身共に疲れ果ててしまっている親御さんもたくさんいらっしゃいます。

それを見た子どもも、不安を口に出せないまま、暮らしていることも事実です。エネルギーは人に豊かさを与えてきましたが、福島原発の件で豊かさの裏にある闇が明るみにでました。にもかかわらず、一部の利害関係で原発を廃炉を妨げる勢力を許してはなりません。みんなで関心を持ち、見張って、ダメなものはダメ! と言っていきましょう。

これまで地元のライブハウスはもちろん、小学校、復興イベントや街のイベントに出演してきましたが、震災から4年を迎える来年に福島で大きなライブイベントを企画しています。福島の方々はもちろん、県外の方々に実際に福島に足を運んでもらい、楽しんでもらいながら、福島の現状を見てもらいたいという気持ちから、そういった考えに至りました。まだまだ微力ですが、私は音楽を信じてこれからも福島を拠点に歌っていきます。

「福島のバンド∞Z」が全国、世界中に名前を轟かせて、福島で頑張っている人たちに勇気を与えていけるように頑張ります。

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~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.38、39

グループ魂/Number the. 富澤タク a.k.a 遅刻

富澤1メイン

(C)2013-ARABAKI ROCK FEST.

Number the.:http://numberthe.com
フクミライ:http://tyo-m.jp/archives/category/fukumirai
予定:http://yoteii.jp
TOHOKU ROCK'N BAND:https://twitter.com/tohokurocknband
富澤タクTwitter:https://twitter.com/TakuTomizawa/

艱難 汝を玉にす。
それを信じて、福島、東北に「想い」を送り続けていきます。

「予定~福島に帰ったら~」(Number the.)のチャリティーソングを、3年に渡り、他県バージョン等、形を変えながら、リリースを継続中。“風とロックLIVE福島 CARAVAN日本”にも精力的に出演。1年に何度か福島県内をまわる、“フクミライ”という、音楽を中心にしたカルチャー型イベントを主催。2013、2014と、東北六魂祭でトリをつとめた、TOHOKU ROCK'N BANDにバンマスとして出演。

 

 

 

あれから3年半が経とうとしています。震災直後は未体験の重い現実に打ち拉がれ、混乱状態でした。危機的状況だった身近な人を気遣うのが精一杯で、自分自身のテーマなどは、吹き消されてしまったかのようでした。
ここまで、周りの人に支えられ、音楽を続けてきましたが本当につながりの中で生かされている、やらせてもらっているのだと、改めて実感しています。
今も変わらず、自分ができることの限界に苛まれますが、できることを、やれる範囲でやるしかないのだと、そう思う事が、継続や安定につながっていき、
結果良くなっていくのではないかと思っています。
福島の原発の問題をはじめ、復興にはまだまだ遠い道のりが待っていますが、この時代を共に生きる、
地球船の船員の一人として、「想い」をもって進んでいきたいと思っています。
そして、そうしていくには、心と体が健康であることが大切だと思います。
どうかみなさんもご自愛ください。

 

2013年に発売された『予定~◯◯に帰ったら~』。売り上げが全て寄付されている。

2013年に発売された『予定~◯◯に帰ったら~』。売り上げが全て寄付されている。
2012年12月の福島から始まった“風とロック LIVE福島 CARAVAN 日本”。沖縄、札幌、長崎、東京、神戸、広島、宮城、岩手、と最後にまた福島。約一年かけて全国を巡った。

2012年12月の福島から始まった“風とロック LIVE福島 CARAVAN 日本”。沖縄、札幌、長崎、東京、神戸、広島、宮城、岩手、と最後にまた福島。約一年かけて全国を巡った。
PHOTO by 石井麻木

2014年に5月に発売されたTOHOKU ROCK'N BAND『東北ROCK'N音頭』ジャケ写。イラストはメンバーの荒井良二さん。プロデュースは箭内道彦さん。富澤タクが作曲及びサウンドプロデュース。

2014年に5月に発売されたTOHOKU ROCK'N BAND『東北ROCK'N音頭』ジャケ写。イラストはメンバーの荒井良二さん。プロデュースは箭内道彦さん。富澤タクが作曲及びサウンドプロデュース。

2013年、2014年と2年連続出演している東北六魂祭。 TOHOKU ROCK'N BANDのバンマスとして出演。

2013年、2014年と2年連続出演している東北六魂祭。
TOHOKU ROCK'N BANDのバンマスとして出演。

 

福島県相馬市出身のシンガーソングライター 堀下さゆり

堀下アー写http://www.lilylife.net/

やっぱり音楽は無力ではなかった。
今、音楽で出来ること

地元相馬市で震災に遭い、ボランティア活動の中で子ども達と出会い、音楽で繋がっていった。進まないのは心の復興。どうか忘れないで。まだ何も終わっていないという事を。

 

 

 

2002年のデビュー以来ずっと東京を拠点に活動して来ましたが、震災を機に、東北に拠点を移しました。

あの日、ちょうど福島県相馬市内の実家に帰省中震災に遭いました。大津波に原発事故。あの時感じた恐怖感を…一生忘れる事はないでしょう。
悲しい出来事の連続に、心が音楽を受け付けませんでした。真っ白でした。あの時必要とされたのは、食料や燃料、寝る為の安全な場所でした。音楽ではありませんでした。
ボランティアを続ける中でお声がけ頂き、避難所で有志の先生方が開いていた寺子屋授業で南相馬の子ども達と歌う機会があり、そこで震災後初めて鍵盤を弾きました。歌っているうち子ども達の歌声がだんだん大きく、表情も少しずつ明るくなっていくのを感じ、音楽で出来る事が何かあるのかもしれないと思いました。あの頃は避難先で、子ども達がのびのびと大きな声を出したり遊んだり出来ない状況が続いていました。
3月末からつとめた相馬災害FMのパーソナリティーのボランティア。番組宛に「子どもが不安を感じている。子どもむけの音楽を流してほしい」というリクエストをもらった事がきっかけとなり、やがて『福島の子ども達に笑顔をプロジェクト』を立ち上げ、22校総勢1307名の地域の幼稚園生から高校生が参加してくれたアルバム『スマイル』の制作へと繋がっていきました。約4ヶ月かけての各学校でのREC、音楽を通じて子ども達と紡いだ笑顔の思い出は…私の一生の宝物です。東京のミュージシャン仲間の協力もありCDはようやく完成し参加児童全員にプレゼントする事が出来、翌3月には全国チャリティーリリースとなりました。今年、第一弾の収益金から幼稚園に楽器を寄付する事が出来ました。協力して下さった全ての皆さんに感謝の気持ちで一杯です。

あれから3年と3ヶ月。地震で被害を受けた街中の建物は大分取り壊され、新しい建物が建ち、津波の被害を受けた港も少しずつ復旧が進んでいます。消えないどころかもっと深くなっているのは放射能への不安ではないかと思います。今も仮設住宅に入っている方や原発事故の影響で以前とはかけ離れた生活を余儀なくされている人達はたくさんいます。住宅の除染は継続中で、終わっていません。除染で出た途方もない量の汚染土はいったいどこで処分するのでしょう。原発からの汚染水は今も海へ流れています。その海は世界へつながっています。誰にも無関係ではない、ですよね。

これからもマイペースに、自分に出来る活動を続けていきます。まだ被災地に足を運んだ事がないという方、是非、東北を、福島を訪れてみて下さい。

 

2011年夏、小学校でのレコーディング風景

2011年夏、小学校でのレコーディング風景

 

2011年4月上旬、避難所の寺子屋授業にて子ども達と歌う

2011年4月上旬、避難所の寺子屋授業にて子ども達と歌う

相馬市民会館に届けられた支援物資

相馬市民会館に届けられた支援物資

相馬の中学生が描いてくれたスマイルのジャケット。

相馬の中学生が描いてくれたスマイルのジャケット。

 

 

~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.37

福島県いわき市在住のギタリスト アベマンセイ

​プロフィール写真http://profile.ameba.jp/break-921/

薄れる記憶の為に記録する。伝え続ける為に想い続ける。忘れない為に必要なのは、想い続けること。

自分は福島県のいわき市生まれ、在住のギター弾きとして色んなバンドや人達と音を鳴らしています。そして、いわき市の沿岸部を約20年間モータパラグライダーで空撮で記録し続けている酒井英治さんとともに、映像作品「かもめの視線」シリーズを作っていてその音楽を担当しています。この地で暮らして伝えられることは。

 

 

 

 

元々「かもめの視線」はいわきの人でも知らない、空からしか見れないいわきの美しい海や風景を映像と音楽で伝えるのが目的でした。

2010年の2月にDVD作品としてシリーズ第1弾を発表し地元以外でも好評を得て、2011年3月には第2弾を発表するつもりでした。

2011年3月11日。
あの大きな地震が起きました。
津波、そして、原発事故。

伝えたいと思っていたものが猛威となり、景色を一変させ、目に見えない恐怖が覆いました。

この土地にいて当時はやはり家族や、音楽仲間達の安否、そして、生活や原発に関しての様々な情報を調べては一喜一憂を繰り返す日々で楽器を弾いている余裕などありませんでした。

同時に自分達の作品があまりにも直接的な題材の作品なため発売は出来ないなと思っていました。
海を見るのも辛い人達がいるのは想像に難くなかったですし、実際そういう声も直接頂きました。

そんな時に背中を押してくれたのは、被害の大きかった海沿いの人達でした。ギター弾きの先輩、このコラムにも以前寄稿しているバンド仲間、そこに住んでいる方達、住んでいた方達。

「伝えてくれ」って。
いわきに自慢できる海や自然、町並があったこと。
それを伝える許しをもらい、それを伝える役割があるんだと気づかされました。

再開できたclub SONIC iwakiでの11年4月のライブから、再び震災前の楽曲と映像とともにライブを続け、時間が経つにつれ映像を編集していき、震災当時の様子も、復活していく様子も、なかなか変わらない様子も映し、過去も現状も伝えてきました(全国のニュースなどでも取り上げて頂きました)。

猛威を見せた、けれども、やはり美しい自然も。
制作している自分達、だけじゃない、想いものせて。

シリーズ最新作では、津波被害で天国に旅立ったある女の子の話から作った曲があります。生き残ったお父さんがデザイナーになりたかった娘さんの夢をハンカチ にして叶え、そして、あの震災の経験を伝えたいという「想い」から繋がった出会いです。その曲は過去と今と未来を繋げる為の大事な一曲になっています。

3年が過ぎ記憶も関心も薄れていくのは感じます。人間ですから。逆にそうしないと進めない方もいるのも知っています。もういいんじゃないかとも言われます。
でも、まだ、終わってないのです。
3年が過ぎても伝えられること、知る事もまだまだあります。県外に行っても、同じ県内でも、この地元いわき市でも。
だから、伝えていきます、これからも。

震災から2年半の軌跡を収めた 最新作「かもめの視線3」

震災から2年半の軌跡を収めた
最新作「かもめの視線3」

​甚大な被害があった薄磯地区と海。 現在、防波堤嵩上げ工事が行われている。(酒井英治14・4・9撮影)

​甚大な被害があった薄磯地区と海。
現在、防波堤嵩上げ工事が行われている。(酒井英治14・4・9撮影)

​亡くなった姫花ちゃんのデザインしたハンカチと再点灯された塩野崎灯台

​亡くなった姫花ちゃんのデザインしたハンカチと再点灯された塩野崎灯台

​映像を流しながらのライブ

​映像を流しながらのライブ

 

 

 

~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.36

介護士/歌うたい/ユウワオン 佐藤 努

2013.草野心平文学館撮影100002954071839@facebook.com

人々をコントロールできても、原発はコントロールできなかった。現実と向き合い、何が正しくて、何が正しくないかにとらわれず、“祭り”がしたい。

1978年、福島県双葉郡楢葉町に生まれ。高校卒業後、上京するも、特に何も実らず帰郷。地元で老人介護職に就き、認知症の病気を知り、介護の重要性を知り、地域を明るくしたいと思うようになった。ケアの一環で歌を作るようになり、老人と共に歌っていた。
2011.3.11あの日も。

 

 

地震、津波、原発、私達は、老人数十名を抱え町を離れたました。避難所を転々とし、最終的には、千葉の老人施設に避難させて頂くことになりました。一瞬にして今までの生活は失ったが、歌は残っている。

避難先で介護の仕事に就きながら、自分なりの言葉と歌で、福島の現状を伝える活動を、各地で行ってきました。

脱原発集会、地域イベント、学習会など。様々な方と出会い、思いを共有して頂きました。2012年の夏からは、いわき市内の老人施設に勤務し、市内の老人施設、仮設住宅への慰問、地域イベントへの参加などの活動を続けています。

避難先でお世話になった方々を含め、地域間のつながり、人と人とのつながりには、本当に感謝しています。

昨年、「人を紡ぎ」「町を編む」をテーマに、地域を明るくする応援をしていきたいという思いから、地域イベントの企画、協力を主としたチーム、「ユウワオン」を設立し、3月には、草野心平記念文学館で“ごびらっふのうた#2”を行いました。毎回、希望者には、イベント翌日、20キロ圏内ツアーを案内しています。

震災から3年が過ぎ、様々な思いが言葉として混在している今、私が考える復興(再生)とは、無数の言葉にならない思いを言葉にし、その言葉を自分自身、受け入れることで、「心の復興」=「新しい心」になるのではと考えます。それは、個々の活力となり、人と人とのつながりを持ち、目に見える希望、物質的な復興となるのではないかと思います。

そうした考え方を基に、「話す」と「音」を用い、継続した「笑い」の場をつくり続けるべく、故郷を思いながら、人を、地域を大事にした、明るい活動を継続していけるよう精進していきたいと考えます。

2012仮設住宅慰問

2012仮設住宅慰問

~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.35

株式会社ラヂオもりおか 営業制作部 吉田広宇

196_genjo_筆者画像http://morioka-fukkou.com/about-stitch/

震災翌日に沿岸からラジオ局に届いた悲痛なメールが、フリーマガジン発行による復興支援への思いをつなげる原点となった。

岩手県盛岡市にあるコミュニティーFM局「ラヂオもりおか」。甚大な被害を受けた沿岸地域のある岩手県の内陸にある小さな放送局がし続ける復興支援とは。
またその想いの原点は何であったか。
音楽を鳴らし続けるFM局ならではのつながりが、被災地の思いを発信する。

 

 

 

 

「お願いです。何でもいい、音楽を鳴らしてください。」
一通のメールがラヂオもりおかに届きました。東日本大震災発災の翌日のことでした。まだ停電地域もある中での悲痛な叫びにみえました。メールの主はソフトウェア開発会社でシステムエンジニアをしているリスナーで、予備自衛官登録者でした。彼は震災が起きたその日の夜のうちに、何が起きたのかもわからぬまま招集され、沿岸被災地に派遣されました。通信施設を設置するのが主な仕事内容だったようですが、手に遺体収容用の袋を持ち目の前に広がる光景を前にして、自分を保つために「音楽を聴かせてほしい」と訴えたのでした。

平時、ラジオ局の選曲は、季節、時間、世の中のムード、言葉にできない喋り手の思いなど、さまざま要件を考えて行っています。いずれにしてもマイクの向こうにいるリスナーを想像したものであるべきと思っています。JUNGLE☆LIFEの読者のみなさんには言わずもがなですが、音楽には、心を落ち着かせたり、高揚したり、優しくなれたり、涙したり…無数の感情を刺激する力があります。極限の中でも音楽を欲している人がいるという現実は、私たちの背中を押しました。生活・安全情報が主な放送内容で音楽はヒーリングミュージックやクラシックがほとんどであったそれまでの放送から、リスナーのみなさんにメッセージを伝える選曲をし始めました。音楽が人を救うのだと改めて感じた時でした。

そして、ラヂオもりおかでは盛岡市の事業として復興応援フリーマガジンStitch(ステッチ、年4回発行)を制作する機会を得ました。沿岸からの避難者に役立つ生活・支援情報が中心の内容からスタートし、発刊から3年目の今は、広い地域へ風化を防ぐために沿岸各地に目を向けるような内容へと変化しています。いしがきミュージックフェスティバルの行われる9月にはコラボ版を発行。沿岸での音楽を通じた支援活動などを紹介しています。

音楽でつながったあのメールから3年。全国、世界からの数多くの応援と被災者個人個人の強さが、復興への歩みを進めています。日本だけを見ても自然災害は後を断ちません。誰がいつ被災者になるかわからない今、非被災地にいる私たちがそれぞれの被災地に向けて「今、何が必要か」考えることが、何が起きても負けない心と知識を得るのだと実感しています。強い心で人に優しくありたいと考えています。
(了)

復興応援フリーマガジンStitch

復興応援フリーマガジンStitch

ラヂオもりおか

ラヂオもりおか

 

~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.34

FAKE FACE Ba./Cho. AxYxM

195_0283http://www.fake-face.net/

色々な事が見えてきました。「今出来る事、当たり前のことを、一生懸命やる」「一瞬、一瞬を大事に」

僕が人生で一番大きく感じた東日本大震災という自然災害。そこから生まれた音楽での繋がり。人間関係、信頼関係、全て含め、今自分が歩んでいる人生を大事に一歩一歩、歩んで行こう。一生懸命生きて行こうと決めました。忘れられない3/11の記憶。

 

僕は自分自身バンドを続けてきて約8年、今のFAKE FACEを始めてから初のツアー。そして3/11はツアー初日の郡山でした。
僕らもその日バンド初の1週間かけてのツアーということもあり、ワクワクしながら、その日を心待ちにしておりました。
郡山に着いてひと段落。
リハーサルに入ろうかと機材を準備していたら…携帯から、みんな同じ音が…。「緊急地震速報だ!」
建物は瞬く間に揺れ出し、グラス、機材などが倒れ出し、逃げ出す出演者と、スタッフ達。
僕らはちょうどステージに立っていて、その状況を飲み込むまで時間がかかってました。
そして楽器を置いて、外に出ると…「危ないっ!! 出てくるな!」
上から建物の瓦礫が落ちてきたのです。
もう少し早かったら、間違いなく建物の瓦礫に直撃してたでしょう。あの時の郡山ピークアクションの店長、渡部さんの対応は忘れません。
外に出て、駐車場に集まり、とりあえず近くのデパートに一時避難しました。止まらない余震、急に吹雪が出てきたり、もうよくわからなくなってました。
そして、その日のライブは中止となりました。車に戻り僕らは仙台に帰ることにしました。情報も電波もなかったため、その時ラジオから状況をやっと把握しました。津波発生。ラジオでも、テレビでも同じ放送だけ。
帰るのにも車は渋滞。常に長蛇の列ができていました。その渋滞を待てば待つほど、心は不安で沢山になったことも忘れません…。
夕方に郡山を出て、真夜中に今までに見たこともないような暗闇の仙台に、着きました。そして家族の安否がとれて、ようやく、ピリピリしていた感情も収まりつつありました。
※まだまだ書きたいのですが、割愛させていただきます。
徐々に復興していき、今の仙台はこの状況まで戻れたのではないかなと思います。
今ここで生きているのも、人と人との助け合いからきた事なのかなと感じます。
そこで音楽の繋がりそして、人と人との繋がりになってるんだ。と確信しました。震災があってから僕自身沢山の出会いや別れがありました。
僕はこの震災をきっかけに、色々な事が見えてきました。
少しでもいいから、人のためになりたい。
それと、「今出来る事、当たり前のことを、一生懸命やる」「一瞬、一瞬を大事に」。この事を心がけて前に進んでいこうと思っています。

 

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震災当時にいたビル付近の倒壊現場

震災1年後に出したミニアルバム

震災1年後に出したミニアルバム

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FAKE FACEのライブ写真

 

 

~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.33

LIVE & CLUB MACANA ブッキング Daylight Tree Records 馬渕竜也

馬渕竜也http://macana.net/
http://www.fake-face.net/

大きな傷跡から生まれた沢山の絆。僕の終わらない音楽人生で一番に大事にしていこうと思います。

当たり前の日常がなんと幸せな事かと感じされた震災。当たり前の優しさがなんと幸せな事かと感じさせてくれた震災。その経験によりはじめたレーベル、そしてより強くなったライブハウスへの思い。希望という物は最初から僕の目の前にありました。音楽と共に生きていこうと固く決心する出来事になりました。

 

3月11日。入社したてで色々覚える事もあり慌ただしい毎日を過ごしていました。当時のMACANAは地下1階がホール、7階が事務所という作りでした。
突然それは起きました。古いビルだったので揺れには弱い建物で、どんどん大きくなっていき、その場に押し倒されるように埋もれてしまいました。
無残な光景となった事務所に混乱しましたがすぐさま避難。事務所以上に混乱する人集りに変わり果てた光景。突然の出来事に公共機関はほとんど機能していない。先ずは家へ帰ることが優先だと判断しました。
両親、知人に電話するが繋がらず、そして結成してまだ1年足らずのFAKE FACEが初の東北ツアーを沖縄の2side1BRAINと共に初日福島へと向かっていましたが当然連絡もとれず…。ラジオから聞こえる「津波」「死者」「原発」という言葉に実感もなければ状況も理解できない。家へ着き両親の安否は確認し安心しました。ライフラインは遮断されやはり状況を確認することができず不安な夜を過ごす。
翌日。中心地のライフラインの復旧は早く、MACANAの電気を使い携帯電話の充電貸出を始めました。ようやくFAKE FACEとも連絡がとれ、なんとか仙台へ戻っていると聞き、すぐさまみんなの元へ駆けつけメンバー全員の安否を確認し安心しました。その後の地震の状況に関しては大勢の方が本紙でも語っていると思いますし、文字数に限りがありますので割愛させていただきます。
その後MACANAは営業中断するものの、数々の関係者、アーティストの皆様のおかげで以前よりも素晴らしい形となりその年の10月に見事復活。FAKE FACEは再度東北を含む土地でのツアーを行い、地震の状況を全国へ報告しながらも俺らは元気だと言わんばかりのライブをしました。その事をきっかけに僕はもっと彼らを応援したくなり、レーベルを立ち上げ地震から一年後にFAKE FACEの1stミニアルバムをリリースしました。
今回の地震で失ったものは沢山ありましたが、同時に得たものも沢山あります。MACANAの復活の際は本当に多くの人に支えられましたし、FAKE FACEといっしょに被災した2side1BRAINは沖縄にてすぐに復興ライブを行っていただきました。復活後のMACANAにもすぐ来て頂きFAKE FACEとの共演も見事果たせました。
大きな傷跡から生まれた沢山の絆。僕の終わらない音楽人生で一番に大事にしていこうと思います。

 

今は無き旧マカナの入り口

今は無き旧マカナの入り口

初めて流通をしたFAKE FACE

初めて流通をしたFAKE FACE

復活したマカナのステージ

復活したマカナのステージ

 

~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.32

SHELLSHOCK Ba./Vo. Masami “DIE” Chiba

shellshock_dai_2http://www.revontuletrecords.com/shellshock/

「水の都 古里石巻は皮肉にも、その水によって無惨な形に成り果てた。あの惨状は今も片時も頭から離れる事はない」

20数年を石巻で過ごした。幾多の音楽を聴いて育った。言ってみれば、現在の自分の土台は石巻で形成されたと言える。今でもその当時の音楽を聴くと、情景が鮮明に思い浮かぶ。音楽にはそういう力があるのだろう。町や海、河を一望できる日和山。満開の桜を愛でながらの酒席は殊の外、酒杯を速めた。日常の風景が日和山にあった。はずだった。

 

3月11日。音が繋がらない。声と言う音が。流れる音に呆然となった。連呼される壊滅という聞き慣れない音。繰り返し流される壊滅の音。生きてきて一番不快な音。古里の情景が壊滅していく。音で壊滅していく。
3月12日、仙台市内に居た弟の無事が確認出来た。只、親は駄目かもしれないと。と同時に福島第一原発が爆発したらしいと聞く。女川原発は大丈夫なのか? 弟の声で事態の深刻さを知らされた。生家の近くまでは行けるものの、水が引かず近づく事が出来ないと連日連絡が入る。プラスになど考えられない状況。時間だけが過ぎていく。駄目か。
3月16日、2階で在宅避難していた両親の無事が確認出来た。弟と再会したその時マッコリ他諸々で一杯やっていたらしい。思わず笑った。震災後、初めて笑った。とりあえずは胸を撫で下ろす。
3月26日、高速バス再開に伴い救援物資を持って被災地へ。初めて見る光景。何だこれ? 何処だここ? まさに戦場が現実に目の前に拡がっている。砂塵、臭気、泥、残骸、傾斜、湾曲、倒壊、絶無。ライフラインが遮断された生家で両親と再会。声が出ない。夜2階で両親と缶詰でささやかな酒杯をあげた。マッコリ他諸々で。
川の字で寝たのなんて、何十年振りだろう。翌日、日和山へ向かう。日常の風景が消えていた。まるで違う風景になっていた。それでも桜は咲くんだろうな。ぼんやりと思った。後に分かる事だが幼い子供含め縁者が多数、犠牲となった。流される我が子に笑顔で手を振ったという話を聞いた。てんでんこ、何も考えずに逃げるとは、そういう事なのだろう。が、きつい。自分は直接被災していない。その事に負い目を感じている。話を聞いたり体験談を読む度に悔しくなる。
今年、新譜をリリースする。楽曲自体は震災のひと月前に出来上がっていたが、録音までには相当な時間を要した。計画停電という無意味な物の為、リハーサルが思うように出来なくなった。思うように動けない事への焦り。高校野球春の選抜大会に母校石巻工業が初出場を果たした。プレーもそうだが選手宣誓と校歌は、やはり感慨深かった。自分が、この年齢の頃“17Gig”と銘を打ったライブを自分達で企画した。石巻の友人が津波の影響を受ける事もなく、その映像を発見した。震災前の石巻が、そこにあった。来年30年振りに“17Gig”改め“47Gig”の企画をしている。実現出来たら、こんなに嬉しい事はない。“77Gig”目指して大いに酒杯を傾けたい。マッコリ他諸々で。

1_3.26_ヘドロ

3月26日、ヘドロ除去後の生家

2_バス

雄勝の屋上まで流された大型バス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3_クジラ缶

子供の頃から見慣れている巨大な鯨缶。横転した

4_女川

がんばっぺ女川

 

~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.31

極惡いちご団 G./Vo.阿仁異

AP_ANIEhttp://www.aj-group.co.jp/ichigo/

東北は無くなった訳じゃない。皆、東北へライブしに行けよ!!

あれから2年半経ちましたね。俺のバンド、極惡いちご団は震災前からかなり東北を回っていたので、東北には仲間のバンドマンや毎回見に来てくれる御客さんも多かったし、いつもお世話になってるライブハウスも沢山あったので、震災当日は本当に心配で心配でしょうがなかったな。

 

実は俺も千葉でライブハウスをやっているので、東北の仲間の心配もそうなんだけど自分の店も機材が転倒したり、落下物でぐしゃぐしゃで、それの片付けやら店に向かってるツアーバンドが首都高で足止め食ってたりの対応やらでバタバタだったのを今でもハッキリ思い出す。
予震や停電の続く中で、電話も使えない、ガソリンも無い、電話も繋がらないあの不安な気持ちは一生忘れられないな。
震災直後は不謹慎論やらなんやらが飛び交う中、自分達に出来る事を考えてみたが、極惡いちご団には復興やチャリティー向きの楽曲も無いんで、動けば動くほど「不謹慎」と言われてしまってましたな(笑)。
とにかく、東北へ行かねば!! って気持ちだけでガタガタの東北道をひた走って東北にライブしに行った。
俺達は見た目の感じも楽曲も不謹慎そのものなので、なにをしても説得力にかけるので、ライブやりまくってTシャツを売って、その売上をお世話になってるライブハウスに直接支援する動きをしていたんだけど、震災や直後にきた大雨の影響で浸水したハコはビルごと取り壊しになってしまったり。無力感しか感じられなかった。
福島あたりじゃ、今もバンドは減ったままのようだし取り壊されたハコも営業再開できていないところがある。
bayfm主催のアーティストと行くチャリティーバスtourというのに参加もしたが、福島行きのバスだけは放射能を気にしてか募集の人員に欠けてしまい、一部の主催者がイベントを降りるという事件もあったり(もちろん俺らは強行して福島に行きました)。
世の中、口では復興だ、繋がろうだ、良いこと言ってる奴が多いわりには現実はなにかと胸が詰まるような事ばかりだったりする。
あちらこちらに様々ないい話が溢れているようでも、現場にはあまり人が居ないし現場はたいして良くもなってない。
目立つ動きをすればネットで叩かれたりと…。それを気にして動けない人も中にはいるだろうな。
そういう意味では、誰に叩かれても良いヨゴレの俺達みたいのは色々やりやすいけどねww
忘れないでほしいのは、未だ東北は震災前には戻ってないって事だ。
震災直後から不謹慎論で叩かれつつも動いてきたバンド達を俺は尊敬するし、諸々の大人の事情で気持ちはあっても動けなかった奴等も否定はしないけど、沢山の良いバンドが東北を盛り上げてくれたら嬉しいな。
東北は無くなった訳じゃないんだからさ。
皆、行けよ東北に!
おっぱーーーーぃ!

 

落下物で足の踏み場もなくなった自分の店

落下物で足の踏み場もなくなった自分の店

酒瓶が落下しまくった バーカウンター

酒瓶が落下しまくった
バーカウンター

福島県郡山市周辺の様子

福島県郡山市周辺の様子

壁が剥がれ落ちたライブハウスの階段

壁が剥がれ落ちたライブハウスの階段

 

 

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